鍵トゥートは文章で補足します
macOSにバンドルされてるDidotってどこのファウンダリのDidotなんだろう。Regularの数字がオールドスタイルしか収載されてない。(わざわざLinotypeのDidot買った)
いまのところ大場ななが一番好き
大場ななのクソデカ感情かなり良いな
これ完全に自分のフェチなんだけどメリバであってほしかった
作中では徹底的に観客不在のまま描かれていて、2トップの天堂真矢・西條クロディーヌですら自身のモチベーションが徹底的に内向きでしかないの、物語全体が「キリン」を介して劇中劇になってるっていう理解なんだけど、むっっっちゃ不純やん〜〜〜〜ってなった 人間全員が舞台を遂行するための装置になっている
そういう意味ではかなりゾワゾワするというか、多分「舞台」が表テーマなのでそこは意図的な演出だろうなァ
ん〜〜〜〜〜〜〜キリンが観客を自認してるせいでむちゃくちゃになってる
やっぱ大場ななが圧倒的に狂っていて圧倒的に好きだな
めちゃくちゃ浅ーーーくブルデューの『再生産』のさわりだけ読んだ上で、やっぱレヴュースタァライトの「アタシ再生産」、これめちゃくちゃ文化的再生産の話だよねって思った
レヴュースタァライトの表層は「再生産」深層は「再帰」である - レヴュースタァライトの深淵に入る https://alpha-revuestar.hatenablog.com/entry/2018/10/05/084920
再帰じゃなくて文化的再生産だと思うんだよな。表層が「再生産」って言ってるのもよくわからなくて、完全に再生産の構造そのものでは???????
(流れるようにロンド・ロンド・ロンドをレンタルした画像)
で、ブルデューの文脈でレヴューデュエットを見、「アタシ再生産」の言葉を鑑みると、かなり残酷な現実が浮き彫りになる気がする
「スタァライトしちゃいます」って言っている主人公自身が戯曲スタァライトの結末を否定している構造、残酷がすぎるでしょ
神楽ひかりにとって(というか華恋とひかりにとって)の再生産は「RE:CREATE」であるとは思いますが、やはり物語の全体的な主題は文化的再生産であるように思えるんですよね。
華恋とひかりは幼い頃に見た舞台を原点に、自分たち自身の舞台を「作ろう」としていますが、それはマクロ的に見ると文化的再生産におけるハビトゥスとプラティークの関係性になってませんか
天堂真矢・西條クロディーヌ・花柳香子・石動双葉といったいわゆる上流階級(とその周辺)の人間がめちゃくちゃあっさり問題を乗り越えて(≒スキルアップ・成長して)いくのに対して、愛城華恋・神楽ひかり・露崎まひる・星見純那といった一般家庭の人間は問題を「そもそも問題じゃなかった」と捉え直すことでポジティブになっていくんですよね。これは一見するとキャラクター自身の成長のように見えるんだけど、根本的には問題の先延ばしにしかなっていない。
たとえば双葉は市井寄りの人間として描かれているものの、「入学時には成績最下位だったが努力で上位に来ている」という、明確にスキルアップしている描写がある。
華恋は「結末を作り変える」ことで解決しているし、ひかりは自己犠牲によって問題を先延ばしにしている(幽閉されているのとかめちゃくちゃ顕著ですよね)、純那もまひるも、「今の自分」の肯定によってポジティブになっている、それはある意味では成長だけど、演劇におけるスキル的な何かが伸びたわけではない。
このあたりの人物の描き方が、文化的再生産の構造になっているんじゃないか、というのがぼくの考察です。
見落としてたらごめんなんですけど、アニメ本編や公式サイトのキャラクター紹介含め、家庭環境とかバックグラウンド一切語られてないの大場ななだけじゃないか?
大場ななをどうしても特別扱いしてしまうのやっぱこうメタ的に作られた唯一のキャラクター(除くキリン)だからなんだろうな
レヴュースタァライトのことなんにもわかってませんが、アニメ版12話イッキ見して即総集編をレンタルしてあさ5時まで見るくらいの熱量はありました
めっちゃ面白い作品だとは思いますがキリンの存在が受け入れられなさ過ぎて自分の中でどう処理したもんかなっていう戸惑いのほうが現状デカい
大場ななが英語のスラング(Big banana=重要人物)であることへの言及あまりにも少ない気がするんだけど、みんなわかってて自明すぎるから触れられてないだけなんか?
大場ななの例を見るに名付けは相当慎重にやってるように思えるのだが、その前提において、主人公が「愛情」「可憐」の名を冠しているのは神楽ひかり目線なんだろうな。
可憐という語のもつ憐れみ・庇護のニュアンスと裏腹に本人は「いつでも元気、声も大きめ、(でも早朝レッスンは超苦手)。」
The Starlight Gathererとかいうよくてメリバ 普通にバッドエンドの戯曲を幼少期に見て好きだって言う感性、異常だよ
キリンへのお気持ちを表明したら帰るか
「再生産」っていうド直球ワードと「勝者/敗者が明確に分かたれる世界」であってなんで文化的再生産の話に行き着かないんだ
そもそも第四の壁を破る(もしくはめちゃくちゃ意識させる)役割として、キリン=視聴者、の構造が取られている。
(キリンがカメラ目線で「そう、あなたと一緒」と語りかけるシーンに明らか)
キリンが劇中劇の外にいる存在で、ただのヴィランに徹しているのであればよかったのに、「あなたと一緒」と断言されるのがめちゃくちゃに胸くそ案件ダナーとなる。
そもそもこのキリン、観客を自認してる癖に、基本的に公演後に拍手しないんすよね。そこがまずぼくの観劇ポリシーとは相容れない。興奮して声をだすことはあれど拍手はせず。前足を鳴らせ。
でさらに最悪なのが、観客を名乗りながら、演者をコントロールしてるんですよねこいつ(「舞台を愛する観客にして/運命の舞台の主催者」)
勝者には目に見える餌を与え、敗者にはペナルティを課す。劇中劇なので、観客の介入を劇の一部にするという流れは大いに理解できるものの、それはあくまで演者から観客というベクトルでなくてはならない。ましてや「主催者」と名乗っていて、それはもはや脚本側なわけですよ。観客が脚本を用意する劇のなんとつまらないことか。
で。引いた視点で考えると、これは現代のエンタメでしばしば起こり得る話だなーって感じるんですよね。たとえば配信者しかり、アイドルグループしかり。
「この人にはこうあってほしい」という思いは、時に演者を縛る枷にもなりうる。オタクとしてそうはなりたくない、という観客像がキリンなわけです。
だからこそ、そのキリン自身に、「わたしはあなたです」と宣言されたときの言いようのない嫌悪感が!おれキリンきらい!まじ!
要するに、キリンの自己満足のためにかわいい女の子たちが消耗させられてる上に、消耗させてるやつが「お前は俺と一緒の存在やぞ!」と語りかけてくるわけです。最悪すぎるでしょ。
よくできてんなーと思うのは、徹底的に箱庭化されてるせいで、少女たちは「自分の意思で舞台に上っている」と誤認してるんですね。これがいわゆる文化的再生産におけるハビトゥスなのです。だから謎のオーディションそのものに疑問を抱かない。
これは劇ス見る前のオタクの呻き声ですが、ワイドスクリーンバロックのもじりなのは自明として、補完された先がワイルドなのは、少女たちのこれから行く先がWildnessであるという理解でよいんですかね(答えは劇場で!)
星翔音楽学園、第99期生、出席番号178番、冷凍イナバP! 入ります!(映画のチケットの写真)
(TV版視聴終了時の「えこんな終わり方ありなんか」という感想トゥートのブースト)
ディテール全然覚えてなくて曖昧なんだけど、両手で支持するような武器を片手で振り回す子ばっかりだったのってパートナーからの決別って意味だよな?(前半のレヴューの描写あんま覚えてないんですが
来世ではかわいい女の子に生まれ変わってかわいい女の子とレヴューしたいという感情しかない(現世もかわいい女の子だが今から舞台を目指すのはむずかしいため)
※ポタリングで台場付近を走行中です。脳がスタァライトに支配されている
愛城華恋の最後の生まれ変わりを以て役割を終える「再生産」の構造、「みんなを」から「あなたを」に変化した"スタァライトしちゃいます。"が、本日、今この時、再び「みんなを」に変わるカタルシス
それぞれの訣別のテーマを考えていたが、天堂真矢と西條クロディーヌは「驕り」とか「孤高」からの別れっぽい感じがして、はーーーーこれだからハイソサエティの連中ゎ、、、、となった
安易に百合にしないことで有名な冷凍イナバP選手ですがさすがに天堂真矢と西條クロディーヌは付き合ってるというかもう完璧な喧嘩ップルですね前後の関係については諸説あるので引き続き考察して参りますが
あと武器の考察は概ねあってたぽいが、京都組がどちらも両手武器なので描写としてそこまで明確にされているわけではなさそう。薙刀の香子が両手武器をずっと両手で扱っているのに対し、双葉は名乗りの時に片手で捌く。が、戦闘中はさすがに両手で使ったりしていて、アニメーションとしての描写とのバランスを取っている感じ。
大場と星見のシーンはもともと両手武器の星見が(他人の言葉ではなく自分の言葉で紡ぐという)訣別を決めてからは脇差しで対峙する。奇しくも引導を渡すのが大場なななんだよな~。。あーあ、、オタク泣いちゃった。
真矢クロはもともと一人なので最初から片手剣(たぶんアニメ版の段階からこのへん意図されてたと思う。すごいね。)だからこそ繋いだ手をポジションゼロへ重ねてのフィナーレなんだよな。こいつらレヴューしたんだ!
いやこれワシアニメ版→ロロロ→劇場版の順に見て良かった。たぶん劇場版からだと「ふーん、まあまあおもろいやん」で終わってた
でも昨日劇場版で初見と思われる女の子が脳にスタァライトを食らって「アニメ版も見る、、、何で見れる???」って聞いててオタクはにっこりしちゃった
見ない・聞かない・調べないを徹底してるうちは「運命」だったんですが、中3になってついに調べてしまう。これは華恋自身が「運命」を否定する行為です。劇中で彼女は「不安だったんだ」「自分ルールだから違うかもしれないけど、ごめんね(→高2の5月)」と言っていて、それ以上でも以下でもないとは思います。
ただ、メタ目線/観客目線だと、この「運命の否定」というのは裏を返すと「努力の肯定」なわけです。だからこそ中3の受験期に禁を犯す。その結果が聖翔への合格です。
そして高3になり「空っぽ」「なんにもない」ことに気付く華恋。そんな華恋に、今度はひかりの方から「手紙を出す」ことによって、また運命を否定することになる。これはひかり自身の「運命」に対する訣別の表明ではありますが、幼い日の約束がすでに果たされていることを伝える…つまり、ここで初めて、劇中の人物によって華恋の努力が肯定されるわけです。進路に悩んでいる高校3年生にとってこれはとても心強い。華恋は華恋自身でアークを得たのは間違いないですが、それでもなお、華恋とひかりはすてきな「運命の交換」のもとに生きているのかもしれません。私たちはもう、舞台の上。
香子と双葉のレヴューはめちゃくちゃ分かりやすくて脳みそ停止状態でも安心して見られる(そして本当にこのふたりはしょーもない)
大場ななとかいうやつ、与えられた名前からしてもイレギュラーな存在なわりに時々めちゃくちゃ普通の人間ぽく描写されてわけわからんくなる
Possibility of Puberty、、うんうん、そうだよな、全能感、あるよな。そして見えている可能性の、視野の狭さに気付いたとき、Pubertyは終わりを告げるのだ。
スタァライトの漢かな混植、漢字がゴシック体でかなが明朝体なときと、逆の時があるんですけど、それを意識してみると面白いと思いますよ。
ハイソ2人のレヴューはあれはもうセックスの前の喧嘩なのであの2人が気持ちよくなるための茶番でしかない おれたちは前戯を見せられている
※デーーーーーーーーンとは、「スーパースタァスペクタクル」の3:40付近に鳴る音のことです